軟弱だった幼い頃、わたしはよく風邪を引いた。そのたびに小児科の影元先生にお世話になっていた。隣町にある小さな診療所の待合室は、たぶん先生の自宅で使わなくなったアンティークの家具が置いてあった。代々開業医だったのかはわからない。でもきっとそうなんだろう。一度も社会で働いたことのない母は、かかりつけの医師は融通の利く開業医に限ると信じていて、何かあると必ず自転車でそこに連れて行かれた。
懇意にすることで病弱な我が子をちょっと優先してくれるとか、よりよい診療をしてほしいという大人の知恵を働らかせたつもりだったんだと思う。母には電話一本で駆けつけてくれるお気に入りの電器屋さんと、自分が健康診断に行く病院と、私を連れて行く小児科が必要だった。どこの家庭もママはみんなそんなもんなんだろうなと思っていた。だから子供はみんな影元先生を知っていると思い込んでいた。アホだ。
父の仕事柄、当時住んでいた家の応接間の壁は本棚で埋まっていて、もう一杯なのに本棚は徐々に拡大していた。ある日私専用の安いカラーボックスの本棚が投入された。父の本棚の横に立たせると、棚自体がちっちゃいし、黒い草模様が描かれた毛足の長い紺の絨毯や応接セットに比べて重厚感はまるでなし。差し込まれた絵本はページに白い部分が多くて、絵もクレヨン描きのいたずらみたい。
なんか子供っぽいよ、と幼稚園児のわたしは思っていたけど、まだひらがなしか読めない。大人の本棚は本物の本が詰まっているけど、子供の本棚は、本物の本とは違うんだなと思うだけだった。絵本に失礼だけど。
まずサイズが揃っていない。絵本は版型がまちまちで、背表紙をキレイに揃えて並べて合わせようとしても、合わない。背の高さもばらばら。背表紙の書体も違う。誰かからのお古でうちに流れ着いたぼろぼろな本の横に、新品の絵本が並ぶとなんだかちぐはぐ。……子供ながらに気に食わない。大雑把なO型なのに。
早く本物の本が読めるようになりたいけど、その前にはいっぱい勉強するのかな〜と思っていた時、劇的な絵本に出会ったのが影元医院の待合室だった。
明らかに絵本なんだけど、子供向けとは思えない絵の細かさ。全体的に暗くて描かれている人の顔もみんな微妙に違う。そしてページに余白がない。色がびっしり! なんだコレは!? 大人の秘密を盗み見るようで、ページをめくるたびに、その前のページとの違いを比べた。持ってかえりたいと思ったけど、母親にこれが欲しいとって言ったら困らせるんじゃないかと感じて言えなかった。
ただの風邪気味でも影元先生のところに行きたがったのは、その本を開きたかったから。話しなんてなんにも覚えていない。文章はひらがなだったかもしれないけど、絵の細かいところばかりみていたからどうしても思い出せない。
診察のたびにイラストの細部をみては新しい発見をした。診療所の扉を開ける時、もう待合室にその本はないかもしれないと思うとドキドキした。でもいつもそこにあった。これは影元先生もお気に入りなんだなと勝手に思っていた。
A4を横向きにした程の本で、お姫様と魔女みたいな人と、森の中。覚えているのはそれだけで、タイトルはわからない。絵を見れば絶対にわかるけど、表紙がどうだったかなんて今となっては見当もつかない。試しににアマゾンで”絵本 洋書 和書”で検索して、ページをめくること5分。
……あった。
表紙をみたとたん、記憶が蘇った。『いばらひめ』。レビューを見る。大人が何度見ても楽しめる、とか、イラストはエロール・ル・カインとある。コアなファンも多いみたいだし、幼稚園によっては置かれているものなのかもしれない。たぶん有名な本だったんだ。もう大人だから、今なら買える。アマゾンで買うのは書店さんに申し訳ないような気がするけど、やっぱり便利なんだな。
あの絵本を今開いたらどんな気持ちになるんだろう。
その絵本に出会った当時、自分の絵本の余白を埋めることに凝った。『いばらひめ』の真似をして、余白をなくせば自分の絵本がもっと良くなると思っていた。母親からは「一度描いたら消せないんだから本を大事にしなさい」と怒られたけど、これで世界でわたしだけの絵本にするんだと息巻いていた。結局は使い物にならない絵本が増えただけだった。あとで読み返すと自分で書き込んだ字も絵も子供の筆跡まるだしで理想と違っていた。
どうしてこの絵本を探してみようかと思ったのは、尊敬する先輩から譲り受けた文章指南の本がきっかけ。それは小説で新人賞を穫るためのレクチャーだったけど、「はじめて読んだ本」について原稿用紙一枚、400wを15分で書きなさいっていう課題が第1章。この文章は明らかに400wなんて越えてるけど、私が初めて読んだ本ってなんだろうと思って、あの絵本を思い出した。
ページにのめり込む感覚、ずっと開いていたいと思う感動、あの狭い待合室で出会っていなかったらこんなに感動しなかったのかも。やっぱり本が好きだ。
次によく眺めたのはオーダーカーテンの営業マンが家に置いて行ったカーテン布地のカタログ集。何冊もあって、「ゆっくりみてください、またとりにきますから」って言ったまま二度と来なかった。もしかしてどの家に置いて来たのか忘れたのかも? 開くと本物の布地の切れ端が正方形に色別、価格別に並んでいて、結構いい品物ばかりだったと思う。
それを陽が当たる廊下に座ってずっと眺めていた。本はいろんな種類があるらしいとカーテンテキスト集から知った。母はまた来ますといって訪れない営業マンを気味悪がって引っ越しのときに本は捨てられてしまった。
みんなが初めて印象に残っている本ってなんだろう。いろんな人に聞いてみたい。ということで、これからしばらくみなさんに聞いて回ることにするかも。